「データリテラシー」

2007.02.20
林 亜希子
  • 2007/02
  • 聖路加看護大学 精神看護学
  • 看護師:林 亜希子

新幹線に乗る前には決まって、お茶缶とチーズかまぼこと1冊の新書を購入します。数ページ読んだところで眠りに落ち目覚めたら目的地という結末が殆どで、それもまた幸せなのですが、先日手にした新書は、目的地に着くまで私を惹きつけてくれました。

新書『データの罠~世論はこうしてつくられる~』(田中 秀 著,集英社新書)の導入部分では「視聴率、内閣支持率、経済波及効果、都道府県ランキング等々・・・新聞、テレビ、雑誌に何らかのデータが記載されていないことはまず無い。(中略)しかし、肝心のそのデータにはどれほどの客観性があるのだろうか。(中略)本書は、さまざまなデータを検証することで、データの罠を見抜き、それらに振り回されない"正しい"情報の読み取り方 ― データリテラシーを提案する」と書かれていました。近頃、客観性とは?エビデンスとは?と気になっている私は、「振り回されずに情報を読み取る」という著者の表現に惹かれたのだと思います。

著者は、世論調査、視聴率調査、選挙の出口調査、ランキング調査、テレゴングなど、身近な調査を例に挙げてデータを解釈する際の注意点を述べ、また、限られた時間とコストの中で、いかに有効な調査結果を導くかという工夫、さらに各調査手法のメリットとデメリットについても解説していました。誘導的な文章や曖昧な選択肢など適切でない質問文が用いられた世論調査、有効回答率の低いアンケート調査、対象者の選定方法が妥当でないアンケート調査などの例が解説され、その中には「いつか新聞で読んだ」「ニュースで聞いたことがある」と私にも覚えのあるデータが出てきました。ニュースで報道される印象的なキャッチフレーズと解説者のコメントを、当時の私はそのまま鵜呑みにしていたことに気がつきました。そして、私の中でひとり歩きしてしまったそのデータは、吟味されないまま私の記憶の中に保存されていたのだと悟りました。

看護師として仕事をする時も、教員として学生に伝える時も、研究者として思考し論文に取り組む時にも、論理性や客観性を求められることが多いように思います。無論「私はこう感じる。私としてはこう思う。」という主観は大切ですが、そればかりでは他者の理解を得たり、他者と協働して物事に取り組んだりすることは難しいのでしょう。

看護を学んでいた大学生の頃も、後に看護師となってからも、データに基づいて思考しデータを用いて論述することの大切さは、耳にタコができるほど教えられた気がします。しかし、そのデータの導かれ方を知らないことで偏った解釈をしてしまうリスクの存在は、知っているようで実はよく知らなかったのだと思います。

後に、文献を批判的に吟味するという学習の機会を得たことで、データを正しく解釈することの大切さと難しさに気づいてはみたものの、私のデータリテラシーは、残念ながらあまり進歩がみられません。できるだけ論理的かつ客観的に表現したいと願う時、持論の正当性を主張したい時など、既存のデータを引用することがありますが、私自身がそのデータを正しく読み取り、さらに読み手に正しく伝わるような引用のしかたができているのだろうかと自省する日々が続いています。

情報社会の中で、今や、病や障害をもった人は、医療者が提供するデータだけでなく、巷に溢れるさまざまなデータを拠り所とし、比較検討を重ねて、どのように病とつきあっていくのか、どのように生きていくのかを自ら選び取る時代になっています。私は、看護師として、教員として、研究者の端くれとして、病や障害をもった人が拠り所とするあらゆるデータの質について、もっともっと敏感にならなければいけないと改めて感じています。データリテラシーを高めていくこと、これが今後の私の大きな課題の一つになりそうです。

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