Aさんとのエピソード

沢口 恵
  • 2015/10
  • 看護師・歯科衛生士:沢口 恵

病院での看護経験が長い私は、子どもから大人、高齢者までいろいろな患者さんと出会ってきた。私には、なにかにつけて思い出すある患者さんとのエピソードがある。

新人看護師だった私は、その日の担当であったAさんのところにいった。細かなことは忘れてしまったが、Aさんは女性で、年齢は60代後半くらいだったことは覚えている。

Aさんは山崎豊子の著書『大地の子』を読んでいた。私は集中して本を読んでいるAさんの姿をみて、「面白いですか?」とたずねた。Aさんは私の質問には答えず、怪訝な顔で本の内容をおおまかに教えてくれた。本の内容を聞いたわたしは、Aさんがそんなに集中するくらいだから面白いのだろうと思ったので私も読んでみようと思う、と答えた。するとAさんは、「興味のない本を読んでも仕方がないでしょう」と、さらに険しい表情で答えた。本の内容から興味をもつことができなかったが、その場ではさも興味をもったように振舞った私をAさんは見抜いたとわかり、表情のかたさから不快な思いをさせてしまったんだなと思い、ごめんなさいと謝った。 次の日にAさんのところにいくと『大地の子』を読んでいる姿がみられ、退院するまでには全4巻を読破していた。私はなるべく本については触れないようにしていた。ちょうどそのころテレビドラマで『大地の子』を放送していたのだが、それをみることはなく、原作を読むこともなかった。それ以後、山崎豊子の著書がドラマになるたびに、Aさんとのことを思い出すようになった。Aさんとのエピソードは、私のなかでずっと心に残ることであった。

Aさんがなぜ『大地の子』を入院中に読んでいたのかはわからない。たまたまかもしれない。Aさんの年齢から考えると、たぶんAさんが生きてきた時代を反映しているような内容であったと考えられ、AさんにとってはAさんなりになにか思いがあって読んでいたかもしれない。若かりし頃の私は、そのように考えをめぐらせることもなく、しかもAさんのことを何もわかっていないことに気がついておらず、自信満々な態度でAさんと話していただろうと思う。今なら、Aさんが子どものころの日本はそのような様子だったのでしょうかとか、高度経済成長ってどんな様子だったのでしょうかといった質問するだろう。そこからAさんの今までの人生に少しだけ触れることができたかもしれない。

未熟な自分をAさんはどのようにみていたのであろう、そして今、目の前にいる患者さんに私はどのようにみえるのだろう、患者さんと会話をするときはそのような思いをもつようになった。患者さんとの何気ない会話も大事にするようになったのは、Aさんとのエピソードがあってからだと思う。

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