落ちこぼれの看護観

梅田 麻希
  • 2016/01
  • 看護師・保健師:梅田 麻希

私は、落ちこぼれ看護師だ。看護師を志したのは文系の学部に通っていた大学3年生の時で、通っていた総合大学を中退して聖路加看護大学(現、聖路加国際大学)に入学した。いわゆるリベラルアーツの大学教育を受けていた私にとって、看護系大学での毎日は驚きだった。その良さを有難く思うこともあれば、息苦しく思うこともあった。卒業後は、社会に大きく開けた場所で働きたいと思い、保健所に就職した。その後は、カナダで先住民学を学んだり、公衆衛生・疫学の大学院に行ったりと、看護の世界とつかず離れずの道を歩んできた。だから、自分が看護師であると言わなくてはならない時、「病院で働いたことはないんです」とか、「保健師でしたが、まだまだ卵のままで」とか、「看護学を体系的に修めていないので」などと言い訳をしなくてはならない(と思っている)。

そういう訳で、自分は看護師としては落ちこぼれだと感じているが、看護学は学生時代から好きだった。それはきっと、自分の中に看護学と比較する「他のもの」があったからだと思う。そこで今回は、落ちこぼれだからこそ知り得た看護の魅力について書いてみたい。

看護のおもしろいところは、学問でありながら、限りなく実践を志向しているところだ。どんな看護理論家であろうと、看護の質を上げるとか、人々が回復するという「実益」を無視して、「知」のための学問に徹することはできないように思う。私自身は「知」のための学問をとても重要だと感じているが、看護の骨太な「実践志向」には感服し、また自分もそうありたいと憧れるのであった。また、看護には何でも自分の範疇に取り込んでしまうような包容力がある。それは、看護の使命が、疾病の種類やステージに関わらず、病む人がより健康に、より安寧に過ごせるようにすることだからだと思う。看護の技は、医療による治癒が困難な場合であっても、病む人の心身の苦痛を和らげることができる。その働きかけは、医術だけにも、言葉だけにも留まらない。足浴すること、体を拭くこと、触れること、家族に働きかけること、物理的・社会的環境を改善すること。あらゆるチャンネルを持っているのだ。最後に、看護は人と人との距離を縮める。医療のある国で看護師を知らない人はいない。看護は、最も古い職業の一つだと聞いたことがある。長い伝統を持つ良く知られた職業であるため、どんな国のどんな集まりに行っても、「実は看護師なんです」と言うと、「そうなの?!」と目を輝かせてもらえる。時には、会ったばかりの人に健康問題を打ち明けられたりもする。私は「I am a nurse」で、色々な国に友人を作った。

これらを実感するために落ちこぼれる必要もないのだが、毎日がんばっている人たちに「落ちこぼれたって大丈夫。宝物が見つかるよ。」と言いたい。

看護コミュニティ

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