遺 作

2007.05.20
井部 俊子
  • 2007/05
  • 看護師:井部 俊子

長くナイチンゲール研究を続けてきた同僚が、不治の病いで逝った。もうすぐ新学期がスタートしようとする学期末であった。強い肩こりかと思っていた痛みが、そうではなかったと告げられた時の衝撃を克服し、人生の総決算をじつに見事に行ない、静かに逝った。大学全体に悲しみがおおった。

「『NOTES ON NURSING』におけるNursingの意味とその構造化」(課題番号14572254)平成14年~平成17年度科学研究費補助金基盤(C)(2)(研究代表者 小澤道子)は、彼女の遺作となった。

研究は、「NOTES ON NURSING」(第2版,1860)の原文を底本テクストして、原文の「Nursing」という言葉の用いられ方とその意味、そしてナイチンゲールの考える「病気」、「看護」、「ケア」「神・自然」との関連から、「Nursing」の意味構造を明らかにすることを目的とした。経験を重んじたナイチンゲールが、人生に秩序と意味と目的をもたらすような方法で、科学と宗教を一体化させようとした点に注目し、1860年に私家版として出版した、「神」の問題に取り組んだ「Suggestions for Thought」を副テクストして、ナイチンゲールの宗教性に着目し、スピリチュアルを重視する「看護学」と看護実践のありようを検討することが本研究の特色であると述べている。


報告書は以下のように結論づけている。

1.ナイチンゲールが1860年に看護史上初めて、「Nursing」(看護)という言葉を概念化した背景には、産業革命以後の人間と自然(Science)との関係で知識論が問われていくなかで、人間と自然と神との関係の中で、「Nursing」を論述させたいとする考えが推察された。言い換えれば、当時のイギリス社会の工業化が飛躍的な進歩を遂げる一方で、劣悪になっていく衛生環境と、クリミア戦争での野戦病院の実践を通して、「看護とは、新鮮な空気や陽光、暖かさや清潔さや静かさを適切に保ち、食事を適切に選び管理する、すなわち患者にとっての生命力の消耗が最小になるようにして、これらすべてを適切におこなうことである」と環境に着目した背景には神の存在の中にのみ把握しえる自然に関する真理への問いかけがあることが推察された。
時を経た現在に普遍化される「看護とは何か」への問いと、スピリチュアルを重視する「看護学」のありようの論考に有用な視座が示唆された。

2.「NOTES ON NURSING」の序章と終章に、Nature/Native,God,Providence,Laws,Reparative,Disease,Health/Healthyの7つのキーワードが集中しており、第1命題:神の法則・生命の法則、第2命題:病気は修復作用過程であり自然の働き、第3命題:病気の症状や苦痛は、新鮮な空気、陽光、静かさ、清潔などの一部または全部が欠けていることが原因である。従って、ナイチンゲールの定義はここから発展していることが解釈される。ナイチンゲールの看護の定義の背景には、自然科学が発達して神への信仰が失われつつあった19世紀に、「自然の法則」の根源に「神の法則」があることを説き、神の本性を宿す人間の本性を人間自らが発揮できるようにしたいという主張があり、ナイチンゲールの看護観の理解には「霊性・神の問題」の大きいことが示唆された。

3.「NOTES ON NURSING」と「Suggestions for Thought」の比較により、前者は、健康を守る女性(看護者)にむけて、ナイチンゲールのこれまでの観察と経験(実践)の集大成のメモ書きであり、近代学問として看護の概念化と専門職教育の創始と位置づけられること、後者は、無神論の労働者に向けてキリスト教を基本におき、これまでの思想的 信仰的信条、学問的思索の集大成であること。(中略)「Nursing」の定義は、人間の身体面と身体と霊的生活の相互性と、看護者(女性)が人と環境、人と神の間で実践(観察と経験)する2つのテーマから構成されると推察できる。

4.「Nursing」と「Disease」は、明瞭に定義されているが、「Health」は多義的に使用されていた。  以上、人は、病気(身体)という苦痛、苦悩の過程であっても、霊的生活を通して神とひとつになれると考え、自然科学の「知」と神についての「知」を重ねる新しい「知」(科学)の創造として知識と実践を融合させた看護(学)を考えていたことが推察された。

以上、人は、病気(身体)という苦痛、苦悩の過程であっても、霊的生活を通して神とひとつになれると考え、自然科学の「知」と神についての「知」を重ねる新しい「知」(科学)の創造として知識と実践を融合させた看護(学)を考えていたことが推察された。


研究において一次資料とされたM.D.Calabria & J.A.Macrae編:Suggestions for thought by Florence Nightingale:Slections and Commentaries,University of Pennsylvania Press(1944)は、小林章夫監訳,「真理の探求-抜粋と注解-」(うぶすな書院,2005年)と題して日本語訳が出版された。本研究者たちは翻訳協力者として記されている。

2005年7月、ゆっくりとやってくる聖路加看護大学のエレベーターを待ちつつ、小澤道子先生は完成したばかりの「真理の探究」を、うれしそうに私に手渡してくれた。「この本は、うしろにある西村哲郎先生の"読者への手引き"から読むといいわよ」というアドバイスに従って、44頁に及ぶ「読者への手引き」を2週間後に読み終えたと伝えると、「そう、よかったでしょ」と満面の笑みをうかべて、そっと私の肩に手をおいた。

ナイチンゲールの研究を始めるので、抄読会に来ないかと誘われたのは、私が聖路加国際病院の看護部長・副院長として仕事を始めた頃であった。精神的なゆとりのなかった私は、その後一度も彼女の研究会には参加する機会がなかった。内面の情熱とたたずまいの静謐さの均衡のとれた、彼女の研究テーマそのものの生き方をした人生の先輩であった。

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