看護学生のときは、お金がなかったので、常にアルバイトをしていた。いろいろやったが、病院のバイトはいろんな意味で忘れられない。病棟から裏方まで、何でもやった。振られて寮に籠もって泣いていた時は、心配した友人が産科婦長に掛合ってくれ、新生児室で働くことになった。小さくて、暖かくて、柔らかい赤ちゃんを抱っこする以上に幸せなことがあるだろうか?最初の10分で、もののみごとに彼氏の顔など忘れてしまった。
検体運びのバイトもした。バケツ一杯のホルマリン漬けの臓器を、暗い地下道を何往復もしながら運んだ。揺れるとホルマリンと一緒に、臓器が飛び出して、あわてて拾ったりした。
大変だったのはカルテ整理のバイトだ。何年も前のカルテ(もちろん紙)を番号順に整理して、箱詰めし、新しい倉庫にしまうのだ。ところが、迷子のカルテを探して重い箱を出し入れせねばならず、非常な重労働だった。しかも、その建物は雨が降るとひどい雨漏りがするので、ずぶ濡れになってカルテ箱を避難させなければならなかった。カルテ箱を山積みにしたリヤカーを押して歩く私と友人を、病院の職員の人たちはとてもかわいがってくれた。掃除のおばさんにみかんももらい、縫製のお姉さんにはタオルや暖房具を貸してもらった。腐った廊下の穴にリヤカーの車輪が嵌まって動けないでいると、電気係りのおじさんが助けてくれたし、食堂のコックさんは落っことしたカルテの箱を一緒に拾ってくれた。ところで、この病院には釜焚きのおじいさんがいて、廃材をリヤカーで運んできては火をたいていた。地下にある竈場は真っ黒で狭くて、とても人間が働くような場所には見えなかった。でも小柄なおじいさんはいつもニコニコして、おまんじゅうをくれたり、リヤカー扱いのコツを教えてくれたりするのだ。日本随一の看護を誇るその病院が、このような沢山の職員で支えられていることをそのとき始めて知った。それまで、私は医師に比べて割に合わない仕事だと思っていた。ちょうど退院した患者さんが医師には活き伊勢えびをくれたのに、看護師には箱詰めのお菓子しかくれなかったのを目撃したばかりだったからかもしれない(その伊勢えびが夜中に病棟で脱走して、探すのに苦労した)。しかし、穴倉みたいなところで一年中火を炊くおじいさんや、雨漏りで腐った木造の部屋でシーツにアイロンをかけるお姉さんたちや、真っ暗い地下の電気室のおじさんたちは、患者さんに「ありがとう」といわれることは決してないのだ。この人たちに比べれば、看護師はずっと報われている。患者さんに接することすらないのに、裏方でがんばっている人たちがいる限り、看護師になっても、決して不平はいうまいと誓った。
それからしばらくして、私は白衣を着て看護師として働き始めた。たまに廊下ですれ違っても、掃除のおばさんは私だと気づかない。釜炊きのおじいさんにももう会えなかった。あれから20年近くたったが、あの人たちの顔を忘れることはない。若い頃に学んだ看護の勉強や、病棟で学んだこと、患者さんの思い出などと一緒に私の心の中のどこかに住んでいて、今も私を見守ってくれている。