「わたしもかんごしさんになる!」4歳の娘が大きくなったら、の話である。きっとかんごしさんがナニモノか、どんな仕事をするのかなんてわからないのだろうが。不思議と病院に行くことが好きで、聴診器をあてられたり、口をあーんと開けたり、自ら進んで行うので親としてあまり苦労はない。思い起こせば私も小さい頃から病院の雰囲気が好きだった。医療系のドラマもよく観たように思う。漠然と自分は医療系に進むだろうと思っていた高1の冬休み。風邪をこじらせて肺炎となり、新年早々聖路加国際病院へ入院した。それが私と看護の出会いであり、聖路加看護大学との出会いであった。目の前でてきぱきとかつ笑顔で楽しそうに働いている看護師の姿に「これだ!」と直感で進路を決定した。それからの私は様々な医療系の本をむさぼるように読み、家族の反対をよそに聖路加看護大学へ入学した。20年が経ち、その時の直感は外れではなかったとつくづく思う。やりたいことに出会えたこと、やりたいことが出来ていること、そしてこれからもこの仕事を続けていきたいと思えることは本当に幸せなことである。
しかし、まさか自分が養護教諭として働くことになるとは思っていなかった。そもそも子どもが苦手で、祖父の介護の経験からむしろ高齢者に関わりたいと考えていたのだが、私の職歴は病院の看護師よりも養護教諭が長くなってしまった。「なってしまった」という表現はやや消極的な響きがあるが、「養護教諭としてこのままでいいのか」と常に揺らぎながらであったからだろう。大学時代に養護教諭としての勉強をしたわけでもなく、働きながら先輩養護教諭に教えてもらい、通信制の大学で学びつつ、そして実際に生徒たちとの関わりの中から学びながら「養護教諭って何なのか」と考えてきた。養護教諭をやってみないか、と声を掛けていただき、経験の一つとして引き受けた(これも直感かもしれない)のだが、働けば働くほど子どもたちの成長の奥深さに感動し、養護教諭に対する面白味が増す一方で、自分の知識の薄さを痛感し、同僚間では教育職としてのコンプレックスを感じてもがいていた。
このまま養護教諭を続けてよいのかわからなくなり、一旦辞めて大学院へ進学した。そして修了時に私が出した結論は、「養護教諭ってやっぱりすごい仕事だ」ということであった。客観的に、自分がやってきたこと、自分が関わってきた子ども達、家族、教職員達のことを振り返ると、こんなに幅広く、多様な能力が必要とされる仕事なんてないのではないか、とその魅力を再確認したのであった。社会的にも現代の多様な子どもたちのこころやからだを支える立場として、また東日本大震災で被災した多くの子どもたちにとって養護教諭の存在がよりクローズアップされてきている。しかしながら、その養護教諭を養成する教育課程や学問としてのあり方、現場で奮闘している養護教諭を支える体制も整っていないなど課題も山積している。
この4月から、縁あって養護教諭の養成に携わる立場になった。聖路加看護大学で養護教諭1種免許取得コースが出来て、体系的に養護教諭について学ぶ機会があることはうれしいことである。子どもたちのこころとからだをケアするために必要な資質や能力をしっかり身に付けた養護教諭になってほしいと願いながら、私自身も研鑽を積んでいかねばならないと身に染みて感じている。
さて、10年後ぐらいに娘が自らの存在を問い始め、進路を決定するときに、「私は看護師になる」と言っているだろうか。そんな将来も楽しみにしながら、私が私らしく笑顔で働き続けたいと思う。