「相手をみる」ということは、「相手が星をどうみているかを考える」こと

下田佳奈
  • 2017/05
  • 助産師:下田佳奈

誰かにとって大切なことが、誰かにとってはどうでもよくて、誰かにとっては常識でも、誰かにとっては非常識、というようなことは世の中に溢れています。そして、その「誰かにとっての何か」は決して他人が白黒つけることができないもので、もちろん、する権利もないのですが、その何かが「何であるのか?」を見つけ出すこと、それが看護の本質ではないかと私は思っています。

もう十数年前になりますが、看護にちょっとだけ「慣れ」た頃、患者さんや妊産婦さんが私にとっては数ある中の一人でしかなくなっていることに薄々気付いていた時期がありました。患者さんの死も、赤ちゃんの誕生も、そのつど心が動かされることはあっても、たくさん起こる毎日の出来事の一つでした。忙しさだけに追われていた私にとって、それは「日常」であり、看護は「業務」に成り下がっていました。あの頃は疲れきっていたんだ、と言い訳したいところなのですが、今振り返っても目を背けたくなる後悔が沢山あります。「散歩したい」と言っていた患者さんに、どうしても時間がなくて「明日しましょう」って言ったら、明日が来なかったこともありました。「産まれたらすぐに赤ちゃんを抱っこしたい」って言われたのに、すぐに処置をしないと医師の機嫌が悪くなるからって思って、先送りにしたこともありました。ああ、なんてことをしたんだと今は思うんです。その人にとっては1回きりのことで、その人にとってはとても大切なことだったのに、と。

インドのド田舎の病院で、2年間助産師として活動していた時期がありました。毎日、助かるはずの赤ちゃんがお産で亡くなり、1~2週間に1度、若いお母さんがお産で亡くなり、私は涙が足りなくなりました。「なんであの赤ちゃん、死ななくちゃダメだったの?!ちゃんと観察していれば助かったのに!」と怒りを現地の助産師にぶつける私にむかって、彼らは言いました。「仕方ないよ、助けられる道具もないし、忙しいんだから。」「神様がそう決めたんだから、カナが泣く意味はない」「たくさん死ぬから、たくさん産むだけのこと」と。私は「このお母さんにとって、この赤ちゃんはたった一人だったのに!」と怒りながら、ハッとしました。環境や状況は違えど、遠からず私は同じようなことをしていなかったか、と。そして彼ら助産師だって、きっとそれぞれ物の見方が私とは違うってことを忘れていないかなと。

"Le Petit Prince - 星の王子さま" (Antoine de Saint-Exupéry) に、こんな一節があります。

"だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花が好きだったら、その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、幸せになれるんだ。そして、「ぼくのすきな花が、どこかにある」と思っているんだ。"
"もし、きみが、どこかの星にある花がすきだったら、夜、空をみあげるたのしさったらないよ。"

  誰かにとって、星を眺めることなんてのはどうでもいいことだったとしても、誰かにとってはかけがえのない事だったりするもので、その理由は「星に花が咲いているから」かもしれない。そんな一見些細なようにみえることが、苦しいときや悲しいときは一層、心の支えだったりするのだと思います。もちろん喜びの時も。看護師としての私は、「その人が、星をどのようにみているのか」について考えることを忘れない自分でありたいです。

この春から、大学の教員になりました。臨床やインドで出会った人々のように、学生さんたちにとっての大切な何かに思いを巡らせ続けたいというのが目標です。難しいです。大人になると、枠を作った方が楽に生きられるし、自分の殻がある方が安心できるからだと思います。でも、そのだんだんと維持が難しくなってしまう柔軟性、看護ってこうだ、学生ってこうだという決めつけない姿勢、失いたくないなと思います。過去の自分から、次の世界に一歩踏み出した今の自分への、戒めです。

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