看護の体験は人に交わるどの世界においてもケアリングというかたちで存在していると感じている。また看護とは、学べば学ぶほどに広がるばかりで、途方もない学問だとも思う。病院という現場にいなくても、人と接する中に看護の奥深さを実感する。いかに医学が進歩し、専門的な知識があふれていても、世の中は証明しきれない未知にあふれている。生前の体験や、死後の世界と同様に、人、自然について、世界は、明らかにされていないものであふれている。
先日、友人のいる京都を訪れた。元同僚である友人は助産師で、今は故郷とする京都に住んでいる。今もたまに懐かしくなって連絡を取り、先日はたまたまスケジュールが合ったので、会うことになった。彼女に会うついで、せっかくなので一緒に京都の清水寺を散策した。清水寺を訪れたのは数年ぶり、幾度となく訪れていたものの、平日、人がまばらなときに訪れたのは初めてだった。その日はまだ残暑も厳しく、汗をかきかき、ゆっくりと坂を登った。
階段を登り、本堂の手前には、大随求(ずいく)菩薩を祀る随求堂があり、「胎内めぐり」ができるという場所を見つけた。お釈迦様の胎内をめぐる体験である。私も友人も初めてだったので入ってみることにした。
清水寺
光のまったく入らない暗闇、木製の太い手すり、その大きな数珠にも見えるひんやりとした手すりを左手でつかみ、それだけを頼りに、冷たい石づくりの床をはだしでぺたぺたと歩いていく。歩いているうちに、体の熱りはとれ、汗がちょうどいい具合に冷えていた。体感温度は違うだろうけれど、しかし胎児は本当に、こんなに暗いなか9ヶ月もの時を過ごすのであろうか。真っ暗な中、水の中でどのように母親の声を聞いているのであろうか。私は仏教徒ではないのだが、この体験は貴重なもので、暗闇の中で真剣に未知の体験について考えてしまった。
子宮の底辺という部分が折りかえり地点になっており、丸石がおいてあった。そこにはやわらかい光が差しており、随求石と呼ばれる石が浮かび上がっていた。たかが数分真っ暗闇にいただけでも、光はとても暖かく、希望に満ち溢れるものに感じた。胎児は、きっとあふれんばかりの期待で生誕の体験をしてくるに違いない。
随求石
休暇中でも、病院の現場を離れていても、人の生死、自分以外の家族、世界のほんの一握りの人口に過ぎないが、人の感動や苦しみを身近に感じることのできる看護は本当に貴重な体験なのだなあ・・・などと、改めて看護のよさを味わうことがある。患者の安全すら危うい現場において、現場での看護という世界の広がり、喜び、そういう看護の味わいを日々実感する余裕なく、それを押しつぶす劣悪な労働環境に改善策があること、複雑な看護師の労働環境において、患者や家族だけでなく、現場や職場、そこにいる人々に対してもケアが行き届くこと、「胎内めぐり」の体験と看護の現場の体験を振り返り通り、看護や社会に対して祈りをこめる。
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