保健師の活動手段の1つに「家庭訪問」がある。
保健師1年目、私は72の家庭に家庭訪問をした。保健師にならなければおそらく接点がなかったであろう、地域の色々な人々に会い、さまざまな"家族"のかたちを垣間見た。
中には幾つかの印象深い "家族"がある。一棟に数軒の生活保護の高齢単身世帯が居住するアパートでは、干渉しない距離を保ちつつ、互いを気にかけながら1日1日を倹しく暮らしていた。アパートそれ自体が1つの家族のようでもあり、共同体だと感じた。また、同じ屋根の下に住んでいるが他人以上に距離がある家族や、どこからどこまでが"家族"なのか解明するのに1年くらいかかりそうな不思議な屋敷、ベッドで眠りについたまま孤独死で発見された身寄りのない高齢女性、幾つもの複雑な問題を抱え、安息の瞬間はあるのかと思うほど激しい葛藤のなかにある家族...。保健師の仕事は日々自身の人生や生き方を問われているようだった。
そんな中、今でも時々思い起こす人がいる。Aさんは70代後半の男性で1人暮らしであった。所有するマンションの最上階の1室に住み、外出もせず近所との付き合いもほとんどない、いわゆる「閉じこもり高齢者」と言われていた。地区担保健師としての当面の課題は、Aさんをデイケアなどに連れ出し、"外界"とのかかわりを持ってもらうことであった。そうすることで日々の生活に適度な刺激ができ、健康課題にも予防を含め早期の対応が可能になると見込んでいる。だが人付き合いを好まないAさんが、果たして保健師の訪問を快く受け入れてくれるだろうか。
一見気難しそうに見えるAさんは、意外にも保健師の訪問をすんなりと受け入れてくれた。陽がよく入る整理された室内でAさんは静かに暮らしていた。ぽつりぽつりと話すAさんから、東北の出身で7人兄弟であること、以前は他県で商いをしていたことなどを聞いた。妻とは20年以上前に死別し、一人息子は10年前からアメリカに住んでいるという。何年か前に撮ったという孫の写真を大事そうに見せてくれた。1年に1回くらいは電話があるらしい。
ふいに「おれの兄弟はみんな自分で死んだんだ」と言った。7人兄弟のうち様々な事情で5人が自殺し、中でも年の近い1人はAさんとの口論の果てに目の前で命を絶ったという。何と壮絶な体験をしてきたのか、とAさんの人生を思った。と同時に「Aさんは死にたい気持ちがあるのだろうか?」という思いが頭によぎった。もしそうなら、どう支援すべきだろう?精神科への受診勧奨か、近隣や関係者への見守りの依頼か、頻回な訪問か?次の言葉を待ちつつ、新米保健師は頭の中に幾つかの支援策をスタンバイさせた。
「風呂に入りに行ってみようか」予想外の言葉が来た。何故そう来るのか瞬時には解せなかったが、Aさんはデイケアに行ってみてもいいという気になったようだった。Aさんの気が変わらぬうちにと、すぐにデイケアの手配をし、初回は保健師も同行することにした。「やっぱりこんな所に来るのは嫌だ」と言うだろうか?だが、またも予想に反してAさんはデイケアを気に入ったようだった。その後も定期的に通い、入浴だけでなく、スタッフや参加者との会話も楽しんでいるという。
それから1か月ほど経ったある日、Aさん宅に寄ってみると、作業服の男性が出入りしていた。Aさんは引っ越したという。まったく事情がつかめず、すぐデイケアに連絡をした。デイケアのスタッフは、数日前に突然Aさんが「アメリカにいる息子が『一人にしておくのは心配だから』と有料老人ホームの手続きをしてしまい、すぐ引っ越すんだ。」といって涙ぐんでいたと教えてくれた。Aさんと話がしたかったが、既に他県に行ってしまっている。残ったマンションを見上げて、私は途方に暮れた。軌道に乗ったはずの支援が途切れてしまったという不全感ではなく、ただAさんの気持ちが心配だった。
色々な"家族"のかたちを経て、Aさんはこの地でまた新しいかたちを見出そうとしていたのだと思う。だが、新たな地でもっと心地よいかたちを見つけたかもしれない。Aさんにとって"家族"とは、何を意味するのだろう。かたちは変わっていくものであるし、安定=安寧でもない。こだわる必要もないのかもしれない。
保健師として出会うさまざまな生き方から得られるものは、やはり至上の学びであり、そうして得たものを少しでも人々に還元していけたらと思う。