私が多感な思春期の頃。同世代の少年少女が様々な事件の被害者のみならず、加害者となっていることに大きな衝撃を受けた。それが、進路を決断する上での大きなきっかけとなった。
「人間を人間たらしめるもの、それこそが教育である」
教育とは何か。私は、学生時代から教育のあるべき姿を常に考え続けてきた。
社会人一年目。念願叶い、公立高校保健室での勤務。学生時代と異なり、今度は実践あるのみと意気込んだ。そして、十人十色の生徒たちと向き合った。
例えば、怖いものなんか何もないと言わんばかりに、大人や社会に対して敵意をむき出しにするA君。感情をコントロールする力が未熟で攻撃性が強く、他罰的な言動ばかりが先に立つ。当初、保健室にやってくるのは怪我をした時だけ。擦り傷、切り傷、打撲、骨折、火傷など、A君にとって身体中の傷は強さの証のようだ。「どうしたの?」何を聞いても無言。口を開けば「は?」の一点張りで、怪我の手当てすら拒む。その上、保健室内の物に当たったり、堂々とタバコを吸おうとする。規律やルールを教えたくて叱り、彼の感情を余計に高ぶらせることもあった。でも、怪我をしたら、ちゃんと保健室に来てくれる律儀な一面を持っていた。常に何かに苛立ち、強がっているA君の心の声が聞きたくて、こちらも必死だった。
思春期真っ只中にある子どもたちは、もがき、壁にぶつかりながら、自分探しをしている。A君のように、感情や行動を外に向ける場合、問題とされる行動は表面化しやすく着目しやすいが、問題は決して単純ではない。思春期特有の反抗期と一言で片付けられない生徒の一人であった。
学校教育の成果は必ずしも即時的に現れ、明確な指標によって評価できるものばかりではない。特に、"生きる力"や"心の成長"などは、学力試験のように一律にはかることなどできない。だからこそ、一人ひとりの子どもの大いなる可能性と秘めたる力を信じて、子どもたち一人ひとりの成長の芽、伸びようとする力を焦らずゆっくり見守っていかなければならないと思う。教育に特効薬はない。確かなことは、人間対人間の営みの中で育まれ、支えられるということではないだろうか。
その後の長い経過の中で、A君にとっての保健室は、用事がなくても何となく来る場所になった。文句を言いながらも、ふとん干しや洗濯を手伝わされる場所になった。苛立ちをぐっと堪える場所になった。自分を語り、振り返る場所になった。身近な人のこと、将来のことまで語る場所になった。そして、A君が担任教師のことを「俺を見捨てない大人」と形容し、信頼の気持ちを素直に表現したとき、私は、人間のたくましさに圧倒された。
大人そして社会全体の教育力が試されている。そう強く感じるのは私だけだろうか。