髪の毛を洗うことを看護では洗髪といいます。一番最初に髪を洗ってくれた人として私が記憶しているのは母です。お風呂につかって十分に体をあたためた後、洗い場で母が片足を立てて膝をつき、その膝の上に幼い私が仰向けになって寝転がると洗髪の開始です。浴槽から汲み上げたあったかーいお湯が髪の毛や頭皮にしみわたる瞬間はなんともいえず、水が入らないようにぎゅっと目を閉じ、ゴシゴシと髪を洗われているときは至福の時間でした。「人に髪を洗ってもらう=気持ちが良い」という式が成り立ったのはこの頃かもしれません。
それから時が過ぎ、看護学生時代の洗髪演習で初めて人様の髪を洗うことになりましたが、その場所がベッドの上だったのでかなり緊張しました。濡らしていいのはケリーパッドという洗髪用具のたった直径50センチの円の中だけだったのです。その時は首のタオルの巻き方を失敗し、友だちの実習着の襟を濡らしてしまったので、気持ちが良い洗髪にはほど遠かったでしょう。
看護師になってからは集中治療室に勤務しました。ベッドで横になっている患者さんに洗髪することが多かったものの、学生時代に味わった緊張感は薄らぎ、患者さんが気持ち良くそして疲れない洗髪を心がける毎日でした。どうにか緊張せずに洗髪できるようになってきた頃、今度は自分が患者として洗髪してもらう番がまわってきました。手術の前日に髪を洗いましたが、その3日後には髪を洗いたくてたまらなくなりました。ベタつくし、かゆいし、なんだか臭うような気もする...。まるでヘルメットを被っているようでした。こんな状態で知っている誰かに会うのは嫌だとさえ思いました。まだシャワーは許可されていなかったので、洗髪を担当の看護師に頼まなくてはなりませんでした。しかし、「髪の毛を洗ってもらえませんか」このヒトコトが言えないのです。手術後3日で髪を洗ってなんてわがままかも知れない、仕事が忙しいかも知れない、嫌な顔をされたらどうしよう...。お願いしようか考えあぐねていたところに看護師がやってきました。私は意を決し「髪を洗いたいのですが」と言うと、「いいですよ。私洗いますよ」と笑顔で答えてくれました。きっと私もこの看護師と同じように対応しますし、遠慮なく言ってもらいたいと思っているのですが、患者の立場であったこのときは妙に頼みづらく感じていました。こうして無事洗髪をしてもらったのですが、すでに洗髪自体をお願いしている関係上、「もっとゴシゴシ洗って下さい」とまでは言えませんでした。でも本当に気持ちが良く、爽快感を味わったことを今でも覚えています。
先日、20代の従姉妹が緊急入院しました。入院前から数えると1週間以上髪の毛を洗うことができず、櫛も通らない状態でした。私は面会の度にぼさぼさになった髪の毛を整えていましたが、集中治療室の個室から大部屋に移れたときに、とうとう洗髪しました。「看護師さんにお願いしたらいいのに」と言うと、従姉妹は「なんか頼みにくいから」と答え、その後1ヶ月間は母親である叔母に洗髪をしてもらっていました。身内に頼むという気楽さや時間を合わせやすいことなどがその理由のようでした。
髪を洗って欲しいと言えずに我慢している患者さんは少なからずいるようです。遠慮や気兼ねは気持ち良さを半減させますから、「髪を洗いましょうか」とこちらから積極的に声を掛け、洗髪の気持ち良さと爽快感を思う存分味わってもらいたいと思っています。