私が助産師を志したのは大学3年生の時です。高校生までは「助産師」という職業についてほとんど知りませんでした。看護師になることを目指して看護学部に入学し、思春期から妊娠・分娩・産褥期、更年期までの女性のライフサイクル全般を支援する「母性看護学」を学び、助産師という職業を知りました。その授業の中で、特別講義として臨床で働く助産師の方から講義を聴く機会がありました。その講義では、自然分娩の素晴らしさ、女性自らの産む力を引き出すケア、夫など家族のサポートの重要性が説かれ、なんと魅力的な世界なのだろうと私はとても感激しました。私はその魅力的な助産師さんに影響を受け、助産課程を選択し、卒業後すぐに産婦人科病棟の助産師として就職しました。新人の頃は、自分の知識や技術不足を痛感し、母児両方の命に携わる責任の大きさに耐えられなくなることもありましたが、職場の同期や先輩、上司の支えと、産婦さんやご家族の笑顔と感謝の言葉にやり甲斐を感じて助産師として充実した日々を送っていました。しかし、そのような時期に、思いがけずNICU(Neonatal Intensive Care Unit:新生児集中治療室)への異動の辞令がありました。私の勤務していた病院は地域の病院や診療所から母体搬送や新生児搬送を受け入れる総合周産期母子センターで、周産期全般の知識と技術を身につけることを目標とする看護部の方針により、産科病棟とNICUの間で看護スタッフの異動がありました。産科病棟で一人前に働く自信ができた私にとって、NICUへの異動は希望したことではありませんでしたが、今振り返ると、NICUで経験したことのすべてが、今の自分にとって大きな糧になっています。
NICUは早産で生まれた未熟児をケアする病棟で、近年、高度な医療技術の発達が著しい分野の一つです。今は、救命だけではなく、長期的にみても健全な発育、発達経過をたどる後遺症なき生存(intact survival)を目指した新生児医療が行われています。
この病棟で勤務して、プライマリーナースとして初めて超低出生体重児を担当した時のことで、忘れられない経験があります。担当したAくんは、在胎24週、400g台で緊急帝王切開により出生しました。保育器内で呼吸器管理下ではありましたが、出生直後の急性期を乗り越え、経管栄養も始まり、日を追うごとに体重も少しずつ増え、3ヶ月が経過しました。Aくんのご両親は面会時に、保育器の窓からAくんの手を握ったり、声をかけたり、今できる我が子への最大限の愛情表現をしていました。面会の度に、私はどんなに小さなことでも日々のAくんの状況を伝え、ご両親と関わってきました。ところが、3カ月経過した頃からAくんは慢性肺疾患が進行し、呼吸状態が悪化してしまいました。出生直後から長期間の保育器管理で、ご両親に抱っこしてもらうことがなかなか叶わなかったAくんですが、最期はご両親の腕に抱かれて看取られました。Aくんが亡くなった後、個室に移動し、ご両親にAくんの沐浴を実施してもらい、家族3人だけの時間を過ごして頂きました。また、Aくんが3ヶ月間、一生懸命に生きた証として、Aくんの手型・足型をとり、病棟スタッフからのメッセージカードを今までのご両親との情報交換ノートと共にお渡ししました。今でもAくんの最期を看取った時のAくんのご両親の涙と号泣する姿が忘れられません。
「子どもの死は未来を失うこと、配偶者の死は現在を失うこと、親の死は過去を失うこと」と言われています。両親は妊娠した瞬間から子どもとともに過ごし、その命を感じ、生まれてくる我が子との未来を思い描いています。周産期の死は、その「未来を失う」悲しい出来事です。このような家族に関わる看護者は家族の悲しみ、辛さ、怒りなどの気持ちをそのまま受け止め、傍らに寄り添うことが大切です。周産期看護におけるケアの対象は、多くの場合、新しい生命の誕生により祝福の中にいる人々ですが、一方で流産や死産、新生児期の死など悲しみの中にいる人々もいます。
現在、私は母性看護・助産学の教員として働いています。看護を学ぶ学生には命の尊さや母性看護の魅力を伝えると共に、周産期の死別を体験した家族へのケアも看護者の重要な役割であることを伝えていきたいと思っています。