―右手で描けなくなったら、今度は左で描けば良いわね
とみさんは、胆嚢に腫瘍があり、転棟してきた際にはすでに車椅子の生活となっていた。
とみさんと目鼻立ちのよく似た娘さんが毎日のように面会におとずれ、穏やかなあたたかい空気を病室に生み出していたのが印象に残る。
とみさんはアマチュア画家で、少女のような澄んだ瞳をくるくるさせ、まだ新米であった私にもいろいろなことをお話してくださった。
しかし、腫瘍はすこしずつ、とみさんの身体をむしばみ、脳へも影響を与えた。右半身の麻痺が徐々に強くなり、酸素も必要になっていった。そのような日々の中にあっても、とみさんは、いつも落ち着いて、自分のからだを受けとめていらした。
プライマリであった私は、娘さん、息子さんへは、とみさんのご様子をお伝えし、娘さん、息子さんからは、今までのとみさんの暮らしをお聞きし、ご家族とも関係を深めていった。
そんなある日、私は娘さんから相談を受けた。
「母にゆかりのある人々を招いて個展を開き、ほんの少しでも本人を外出させたい」
私は、すぐにチームの仲間に相談した。ご本人はもちろん個展に向けて目を輝かせている。
チームの皆は、本当に一緒になって考えてくれ、その日から外出に向けての作戦が始まった。
移動はどうしたらよいのか、少しでも長く車椅子に座れるようにするにはどうしたらよいのか、外出中どんな準備を備えておけばよいのか・・
チームで話し合う和の中に、病棟主治医や科の部長先生、外来主治医の先生も混じって、とうとう外出許可がおりた。
外出までのさまざまな道のりの中、ご本人は少しでも長く座っていられるようにと車椅子で過ごす時間をのばされたり、どの絵を飾ろうかと娘さんと相談したりしながら過ごされていた。生誕90周年を祝う個展のちらしもご家族の力を合わせ完成した。
こまごまと準備を重ねた当日、個展会場では満面の笑み、ときには涙を浮かべるとみさんがご家族やゆかりある方々に囲まれていた。とみさんがじっと見つめる瞳の先には、描き続けてきたたくさんの油絵が、柔らかなライトを浴びてそっとたたずんでいた。とみさんの瞳の輝きは本当に美しかった。
病室に戻った翌日、検査への渡り廊下で1枚の大きな絵をとみさんと一緒に眺めた。
―右手で描けなくなったら、今度は左で描けば良いわね
今でも、ねぎぼうずの絵の前の娘さん、息子さんととみさんのはにかんだ笑顔が鮮明に蘇る。