その人の生き方を支えること
2014.12.01
私は以前、行政保健師として働いていました。
人々の生き方そのものに触れる仕事に、大変さと責任の重さを感じながらも、私は行政保健師の仕事が好きでした。その思いを支えてくれたものは私の祖父との少し辛い別れになります。私がこの"その人の生き方を支えたい"と思った最初のきっかけをお伝えしたいと思います。
私の祖父は明治末の生まれで、戦前から戦後を鉄道員として勤めあげた人でした。当時の男性としては珍しく、病気がちな祖母に変わり、炊事、洗濯、孫の遊び相手、ペットのウサギの世話までしてくれるとても優しい祖父でした。同居はしていませんでしたが、私は2歳で父を亡くしており、母は仕事のため、私はよく祖父母宅に預けられました。思えば私の入学、卒業をはじめ、成長をとても喜んでくれたのも祖父で、祖父の中には父親代わりという意識もあったのだと思います。
そんな祖父が突然入院したのは、私が高校生の時、87歳でした。体のむくみがひどく、受診したところそのまま入院になりました。今まで大きな病気もしたことがなく、入院も初めての祖父。私は「大丈夫かな?」と思って心配して病室に行くと、水色のチェックのパジャマを来て、ベッドに笑顔で正座していました。どうやら快適な様子で、医師や看護師にも正座であいさつすることが日課になっているようでした。祖父は、「腎臓に異常があるかも知れないけどたいしたことなさそうだよ」と言いました。でも、いろんな検査をして最終的にわかった結果は胃がんでした。そして、すでに手術ができないくらいステージは進行していました。
それから、私は自分が祖父に何ができるのだろうと思い悩みました。「家に帰りたいかな」、「会いたい人はいるかな」、「行きたい場所はあるかな」等、いろいろ考えました。そして、何が祖父にとっての望みなのか、祖父は何を大切にして生きてきたんだろうと考える中で、祖父にとってのよりよい今を考えることは、病気のことだけではなく、祖父の今までの生き方そのものを探っていくことでした。
でも、私達家族は、その時、何も出来ませんでした。祖父に本当の病名さえも言うことができないまま時間は過ぎていきました。祖父は、しばらくは元気でしたが、病状は急激に悪化し、日増しに苦しそうな表情になる祖父に、私はどんな言葉をかけたらいいのか分かりませんでした。祖父との最後の会話は亡くなる数日前でした。全身に黄疸が出て、呼吸も苦しそうな祖父に「ともちゃん、少し枕をずらしてくれないかな」と言われました。力を入れることができなくなった祖父の身体はずっしり重く、私はオロオロしながら祖父の背中にある枕を引っ張ったことを覚えています。祖父は少しも楽にならなかったと思いますが、その時、祖父は私に優しい目を向けてくれました。数日後、祖父が亡くなった連絡を受けて病院に着くと看護師さんが祖父の亡くなった時間を教えてくれました。握った手はまだ温かく、もう会えない祖父、でももう痛くも苦しくもないんだと思うと、私は何が悲しいのかさえも分からなく、涙がずっと止まりませんでした。入院してからわずか3か月のことでした。
祖父が亡くなった後、周りの人は、「ずっと病気もせずに元気でうらやましい生き方だよ」と言いましたが、私は、祖父の思いを果たせなかったという思いがずっとありました。そして、看護を志し勉強する中で、その人の生活の場でその人の人生に寄り添いながら看護をできるっていいなと思いました。その人の生き方に触れて、その人らしく生きることができるように支えていきたいと思い、地域看護に興味をもちました。そして、地域の中で生活する人の健康を支える行政保健師の仕事を知り、なりたいと思いました。
ここで、行政保健師の支援する対象や業務内容について少し記載したいと思います。
行政保健師が支援の対象とするのは、地域で生活するすべての人です。妊娠期のお母さん(お腹の中の赤ちゃん)から高齢者まで、すべてのライフステージの人に関わります。また、あらゆる健康レベルの方に関わります。健康な人をより健康にするために、疾病を早期に発見し受診できるように、慢性の疾患や障害があってもその人の力で歩んでいけるようにさまざまな手立てを尽くしていきます。そのために、継続した家庭訪問や健(検)診等を行いながら個別への支援を行います。同時に、地域全体に目を向け、どのような健(検)診が人々のニーズにかなうのか、人々が暮らしやすくなるためにはどのような社会資源が必要なのか等、行政の施策にも働きかけていきます。
このような、幅広い対象に関わるため、私は保健師として働く中でターミナルの方を支援することはあまりありませんでした。でも、いつも「その人がどのように生きたいのか」「その人にとっての生活はどんなものなんだろう」という思いがあり、その人に大切な支援はその人の生活の中から共に見つけていくものだと感じていました。それは、あらゆるライフステージ、健康レベルの人に対しても同様でした。入職当初は、自分の知識不足、判断能力の未熟さ、処遇困難な事例に対するもどかしさ等に悩む日々でした。でも、その中でも小さな喜びを感じて仕事を続けることができたのは、この思いがあったからだと思います。
あれから15年程経ちますが、今でも祖父はよく夢の中に出てきます。夢の中の祖父は笑顔ですが、私は祖父にもうすぐ会えなくなってしまうことを知っています。そして、残された日々で祖父のために何かしたいと考え、悩み、そこで目が覚め「もう会えない」という寂しさに直面します。まだ祖父との死別を乗り越えられていないのだと思います。でも、祖父は私にたくさんのものを残し、私に地域看護と出会うきっかけをあたえてくれました。私はこの4月から地域看護学の教員として働き始めました。祖父に返すことができなかった思いを、今後、教育を通して、多くの人に返していけたらいいなと思っています。