今年は、太平洋戦争が終わって70年の節目の年にあたります。
戦時下では、乏しい物資、軍需工場での労働、米軍による空襲など、市民は脅かされた厳しい生活を送っておりました。本学の看護学生も例外ではありませんでした。そこで、「今月の看護師」は、当時看護学生として戦争を体験した卒業生たちのお話を紹介したいと思います。
聖路加国際大学看護学部は、戦前は聖路加女子専門学校という名前でした。戦争中は敵性語である「ルカ」を含む学校名を避け、興健女子専門学校と呼称していました。実習先である聖路加国際病院(東京都中央区)も大東亜中央病院と病院名を変えていました。1941年12月に始まった太平洋戦争は、日本軍が好調だったのは最初のうちだけで、年々日本の敗色が強くなっていきました。1944年11月から米軍の戦闘機B29による東京への空襲も本格的に始まりました。終戦間近には、敵機から「聖路加は焼かない」というビラがまかれたため、夜になると近隣住民が聖路加国際病院の地下に避難してきました。
戦争中は、成人男性は徴兵で兵隊にとられ、労働力が不足していました。聖路加の学生も興健女子専門学校報国隊1)として軍需工場等に駆り出されていきました。また、都下への爆撃が激しくなると、学生はいつでも出動できるように防空服を着て靴を履いたまま眠り、警報がでるとそれぞれ病院内の持ち場に出動していきました。
当時、興健女子専門学校1年生だったOさんは、戦時中の体験を次のように語っています。
空襲があると、産科(の患者)と六階の小児科(の患児)は地下へ毎晩避難させました。3月10日、といっても9日の夜ですが、この日は警戒警報と空襲警報2)がほとんど一緒で、(近隣の住民が聖路加国際病院に)逃げてくるヒマがなかったのです。近くの海軍(経理学校)3)は、届きもしない当たりもしない高射砲4)を打たなくてもいいのに、散々打って、その破片で怪我する人がたくさんいました。空襲になると病院内は真っ暗で、その真っ暗な中でも避難できるようにと、階段の数を覚えました。だから今でも階段があるとまず段数を数えます。竹橇(そり)を作って子供を乗せ、階段を滑らせて安全な地下に降ろしましたね。
1945年3月10日未明に、東京の下町を狙った大規模な空襲がありました。東京は戦時中に100回以上の空襲を受けましたが、3月10日の空襲はその中でも最大規模で100万人が被災し10万人が亡くなったと言われています。
その大空襲の翌日の体験をGさんは次のように語っています。
隅田川に掛っていた橋が焼け落ちましたね。始めは東京駅のほうに焼夷弾が落ちて、みんな月島に逃げようと思って橋に行かれたら、今度は月島に落ちて、挟み撃ちになった人が橋ごと落ちたの。水面の上を燃える焼夷弾なんですよ。それで翌日、自警団か何かが、死体を引き揚げるんですよ。その中に、心音がまだあるという妊婦さんがいて、産めよ増やせよ(の時代)だから、幾つも妊婦さんが浮いているんですよ。ほかの水死体は下をむいているのに妊婦さんはおなかが上に向いているんですよね、それでまだ(胎児の)心音があるから、何とかしなくちゃいけないって言って、救護班で一緒に行っていた友人と、「カイザー(帝王切開)ってやったことある?」「いや、医者じゃないとしちゃいけないんですよ。」「でも、そんなこといっていられない、心音あるから助けなあかんわ」って言ってね、そしたらそこに兵隊さんが来られて、「心音があるんですけども、今すぐ帝王切開したらベビーは助かると思います。」と言ったら、兵隊さんが(妊婦さんを)担いでどこか行かれました。「あの赤ちゃん助かったんだろうか、どうだろうか」と。もう母体は完全に焼死ですね、(でも、胎児の)心音がかすかに聞こえるんですよ。別に聴診器じゃないですよ。(紙を筒にして)丸めて聞こえた。そんないろいろな経験しましたね。
戦時中の看護学生が、物資が乏しく、学業も専念できない状況の中で、看護学生として自分たちができる役割を一生懸命果たそうとしている様子が手に取るようにわかります。今の平和の日本にいても戦争中の悲惨な出来事を風化させず、彼女たちのように、どんなときも自分にできる役割をみつけ社会に貢献したいものです。
Nursing students in Japan under the Pacific War
We are going to examine the experience of the St. Luke's nursing students during the Pacific War, to derive suggestions for nursing activity in disasters. Nursing students were interviewed. The interviews were conducted from August 2007 to October 2010. We performed one group interview and eight personal interviews. During the Pacific War, nursing students from St. Luke provided physical labor, to military training/munition factory, as did other students. Therefore, during that period, they were unable to devote themselves to studying. In addition, supplies were poor. However, they memorized the number of stairs from the children's ward on the sixth floor, to the underground shelter, to enable them to take refuge in darkness, when air-raid warning was announced. Thus, the students were prepared for such emergencies. The nursing students fulfilled their duty by practicing during an emergency, tackling different situations.From the interviews, we were able to derive many suggestions about the role of nursing in disasters.
引用参考HP