日野原重明先生の思い出

2017.10.03
1991(平成3年)卒業生有志
  • 2017/10
  • 看護師:1991(平成3年)卒業生有志
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この夏に天寿を全うされた日野原重明先生を偲び、先生が聖路加看護大学の学生に解剖学の講義をされた最後の学年となりました、私たちの思い出をまとめました。三十年も前の事、日野原先生は七十代半ばでいらっしゃいました。

 

博士課程の新設や新病院の建設も間近となる中での入学、一年生一学期に日野原先生の講義がありました。

 

週六日、朝早くから続く講義と山のような課題や講義の度の小テストに追われ、新しい生活に緊張と疲れが重なる頃でした。日野原先生は、'院長先生、学長先生''教科書を書かれた先生''本を何冊もお出しになっている先生'という'偉い方'でした。看護学の授業では先生方が数名まとまっていらっしゃいましたが、日野原先生はお一人で、教科書や講義に使う器具をお持ちになりました。

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現在のように色々な教材がありませんでしたので、ホワイトボードと教科書だけ、そこで循環器の解剖学の説明をされるのです。学生の上着の表地裏地で心臓の仕組みを、ご自宅の古い水道管をお見せになって動脈硬化の状態を説明し、ワイシャツと肌着をめくり上げて胸に心電計を当てたりと、サービス精神あふれるお話しぶりでした。

 

半世紀以上の年齢の開きを感じましたのは、電車の中でのお話しでした。先生は、いつもお車で移動していらっしゃいましたが、その日は渋滞がひどく、私たちの講義に間に合うようにと久しぶりに電車にお乗りになったそうです。そこで女性が座席に座って熟睡しているのが目に留まり、「若い女の人が、人前であんなに寝るなんて。寝顔を見せるなんて、信じられない。」とおっしゃっていました。私たち学生には、電車は大切な睡眠の場であり、課題や試験の追い込みの場でもありました。先生の世代の女性は、人前という意識を持つようにしつけられたのだと察しました。また、先生は若い女性を見ると首元に注目してしまい、「甲状腺が肥大しているのではないかと、診てしまうんだよ。」と 、医師としてのご自覚が常にあることを、にこやかに語っていらっしゃいました。

 

京都帝国大学医学部の学生の頃のお話しもされ、「試験の為に大学ノート二十冊も勉強したのに、試験の問題文は'抗生物質について書きなさい'の一行だけで三時間もあり、びっくりした。」と、半世紀近く前の先生のお勉強ぶりを伺う事が出来ました。

 

まだ新米医師だった頃、聖路加病院の手術室で、看護師に「ここはこう切って、こう縫うのよと横から教えてもらい、聖路加のナースは凄いなと思った。」と聞かせて下さいました。

 

秋の白楊祭(文化祭)では、先生はフランクフルトを持ちながら、バザーで孫娘さんにお土産をお買いになりました。年末のクリスマス会では、最後に先生が指揮を執り、ハレルヤを歌いました。いつも微笑んで、普段はどちらかというと無口な方、人前にお立ちになると生き生きと雄弁になりました。

 

私たちが高校生の頃は、女子の大学進学は文学部か家政学部が殆どでした。看護は3年制の専門学校が主流で、四年制大学の看護学部は選べるほど数が有りませんでした。専門学校と比べますと、聖路加はかなり高額な学費でした。日野原先生は入学式の御挨拶からその点に触れ、「学費は、先行投資と思って下さい。」と参列した父兄に向かって、お話しになりました。先生のおっしゃられた通り、卒業生の方々が築かれた信頼とその御活躍に導かれ、その後の日本経済の不振に左右されず、看護職を選んで本当に良かったと思って参りました。また大学行事の学長講演の際には、「看護はアート」「目標とする人を作りなさい」と度々おっしゃっていました。自分の職業に、理想や良いイメージを具体 的に持つことの大切さも教えて頂きました。

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「聖路加看護大学 開設70年記念祝典」では、日野原先生はモーニング、当時は女子大で女性の教員が多かったこともあり、大振袖や色留袖にパーティー用のスーツやワンピースなど大変華やかなものでした。くじ引きのプレゼントがあり、私たちは日野原先生と並んで、自分の番号が呼ばれるのを待っていました。残念なまま終わってしまうのかと思った頃、先生に残念賞とは思えない立派な商品が当たり、とても喜んでいらっしゃいました。「先生のご人徳でいらっしゃいますね。」と、お話ししたのを覚えています。

 

テレビのご出演が増え始めた時期でもあり、「先生、散歩をしているように歩いて来て下さい、木を見上げて下さいと、ポーズをとらされたよ。」とカメラ撮影でのご様子を、講義中に楽しそうに話して下さいました。

 

大学でも病院でも、少し前かがみで静かに歩かれ、エレベーターは使わずに息を切らしながらも階段を使っていらっしゃいました。先生は常に、'他の方々のお手本でありたい'という思いが強かったようにお見受けしました。それが、お仕事にも生活の隅々にも現れていたように思います。

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先生の御髪が品の良い栗色にきれいに染められていると、「先生は、今日辺りテレビにご出演かしら。」と学生同士で話したのも、今では遠い昔の事となりました。

 

日野原先生は、今頃先立たれた多くの方々に迎えられて御挨拶にお忙しく、過ぎた日々を懐かしむ暇もない程でしょう。私たち教え子の思い出の中では、いつまでも御健勝で御活躍の姿で生き続けていらっしゃいます。先生の御召天に心から哀悼の意を捧げ、神様の御許に御導きがあらん事を御祈り申し上げます。

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