1964年、私は4年制大学になったばかりの聖路加看護大学に入学しました。大学での学びの中で多くの人々と出会い、いつしか海外で看護の仕事をしたいと思うようになりました。大学3年生の終わりには、JCMA(日本キリスト者医科連盟)に入会し、発展途上国での活動を希望しました。卒業後、聖路加国際病院に就職しましたが、発展途上国で看護師として働くなら、助産ができなくては看護師として認められないと先輩に助言され、1年後、東大の助産婦学校に入学し*、助産師免許を取得後、埼玉県深谷の産院で実地経験を積みました。さらに、東大医科学研究所中央検査室・寄生虫研究部、墨東病院伝染科病棟での実習、ネパールや信州下伊那郡の専従保健師を置いたことがない農村での保健師活動など、「何でもできる」看護職を目指して準備を行いました。
*助産婦学校に入学したことは、とても大事なポイントでした。インド、ネパール、バングラデシュでは、准看護師はAuxiliary Nurse & Midwife(略称A.N.M)で、この人たちを村部のHealth Postに置き、一次医療と助産を担当させていました。おそらく、宗主国イギリスの影響だと思われます。
JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)が、1975年からバングラデシュ・プロジェクトを開始することとなりました。当初の計画ではプロジェクトチームは、医師、保健師、栄養士の3人で構成されており、保健師として参加するよう私に打診が来ました。バングラデシュは、当時独立したばかり、風水害に度々見舞われ、経済的にも貧しい国でした。私は、それまでネパールで働くことを目指して準備していたのですが、この時突然、必要とされるなら行こうと決心し、バングラデシュ・プロジェクトに参加しました。
バングラデシュには、1975年末に医師が派遣され、その1年後に保健師である私が入国しました。バングラデシュの受け入れ団体は、首都ダッカに事務所をもつ、バングラデシュNCC(National Council of Churches in Bangladesh)傘下のCHCP(Christian Health Care Project)でした。CHCPを取りしきっていたのは、ベンガル人の産婦人科医Mrs.マラカールで、全国各地のミッション病院及びクリニックなどに約25のセンターを設置し、新たにFamily Planningを含む母子保健プログラムを開始したところでした。各センターは、半径5マイル(約8km)以内の約5千人をパイロット・エリアとしていました。そのエリアの地図を作成しつつ、全戸の家族構成調査、集落毎の5歳以下児検診と家族計画指導がプログラムの主な内容でした。そのプログラムを現場で指導する保健師が必要となり、私はその要請をうけたのです。
バングラデシュに入国して、まず3ケ月間、ダッカでベンガル語の語学研修を受けました。その後、1977年5月よりバングラデシュ南部低湿地帯ボリシャール県アゴルジャラ郡カティラクリニックに赴任しました。ベンガル人ナースとその夫で薬剤師兼事務長の若い2人とともに仕事を開始しました。2人は診療所運営に熱心でしたが、余り地域には出たがらず、私の前任者で、私と同じ年齢のイギリス人保健師(Voluntary Service Overseas)とで、3つのセンター※の現地スタッフの指導役を勤めました。
※3つのセンター:カティラクリニック、カティラクリニックから徒歩約40分の所にあるジョバルパール、そのクリニックからさらに1時間北西のシャンティ・クティールの3つです。後にコリグラム、チョウクリ、ブルアバリ、カンディなども含め、7つのセンターを巡回するようになりました。
カティラの母子クリニック
ここをベースに3つのセンターをまわる。
屋根付の舟で片道1~5時間で次のセンターへ(1977.5~1978.2)
交通手段は舟:クリニックに向かう(中央が著者)
ダッカから初めてカティラへ。(1977.5)
交通手段は舟
竹の一本橋を渡る
フォリドプール県ブルアバリ・クリニックから村々訪問
現地入りしてすぐに、クリニックのすぐ裏手の村出身の青年が、クリニックに検査室を設置するのを手伝い、彼とともにこの集落で、ツベルクリン検査と検便を実施し、全村駆虫を試みました。センターでは、午前は医師が来ない日の診療代行、薬処方(ユニセフなどから供給されている一次薬)、午後は5歳以下児検診、予防接種、地域調査を進めるため、スタッフと村をまわりました。また、その年の秋、水害・飢饉が起り、教会が食料を配る舟に同乗して洪水の村々に巡回診療を行いました。村の人々の健康状態を向上させるために、既に始まっていた人材育成のプログラムにも携わりました。これは、Village Health Worker 育成プログラムという名称で、各村から1人ずつ選ばれた、村民に顔のきく子育てを終えた「おばさんたち」にわずかですが手当を支給し、各センターのナースが各村々で5歳以下児検診・診療を行う時の手伝いや、不妊手術を勧め希望者を集める仕事を頼んでいました。さらに、その「おばさんたち」を月に一度センターに集め、予防接種、栄養指導、火傷、疥癬、結膜炎、下痢症の治療や予防についての知識を与え、村の若い母親たちの相談役ができるように教育していました。読み書きが何とかできる、小学校卒ぐらいのおばさん達でしたが熱心でした。
私が派遣されていた当時、バングラデシュでは不妊手術を政府が奨励していました。こどもが少なければ、こども全員を健康に育て上げることができる、母親の体力が温存できる、という説得です。実際多くの母親がこの説得で手術を受けました。不妊手術をして母親に余暇ができましたが、現金を稼げる仕事がありません。男社会のバングラデシュでは、お金を稼ぐのも使うのも男。母親が父親に「(子供のために)卵を買ってきて」と頼んでも、父親は「たばこ」や「賭け」に使ってしまうのです。そこで、Mrs. マラカールは手工芸品部門を創設し、各センターでは、母親が現金収入を得るための仕事づくりを開始しました。蚕を飼って繭を出荷する、糸紡ぎをする所、ミシンで子供服やバッグを縫うなど、その地に合った仕事を決め、ダッカ事務所が材料調達を手伝って稼働しはじめ、母親達の手にお金が入るようになり、栄養のある食品を買えるようなりました。
バングラデシュでの一期3年を終えて休暇中に結婚し、再び一年働いて、私は帰国しました。
内職プロジェクト:蚕を飼う
ボリシャール県カティラ(1977.5-6月頃)
内職プロジェクト:糸をつむぐ
ボグラ県カンジャンプール
栄養改善は女性の手に現金がなくては。
バングラデシュ北部のセンター(1979.10)
内職プロジェクト:ミシンで縫う
ボリシャール県ジョバルパール(1977.7月頃)
私がバングラデシュの活動で、最も心を砕いたのは、医療が必要なのに貧しい故に、或いは遠いので、医療を受けることができない人々に、いかに健康を提供すればいいのか、ということです。そのためには私たち医療者が、普通の人でもわかる言葉で医療知識を伝え、誰でも一次的な医療が出来るように、医療知識・技術を社会に伝えていくこと(医療の社会化)が大切だと思っています。村の「おばさんたち」が、自分たちが学んだことで、人の役に立てる喜びを知り、学ぶことに意欲を燃やしたように、保健医療を多くの人に伝えたい。
そしてもう一つ皆さんに伝えたいことがあります。私が働いたのは、独立戦争があった数年後の荒廃したバングラデシュでしたが、その後訪問する度に、人々の暮らしは確実に豊かになっていくのを感じます。舟でしか行けなかった所に道ができ、バスが走っている。平和でさえあれば、富は蓄積されるのだと。どの生命も救いたい私たちなればこそ、平和を造り出す者でありたいと思うのです。