今年7月初旬、新人看護師時代を過ごした病院を訪問した。病院から見える海はあの頃と変わらずに青く、晴れやかな青い空が広がっていた。その青色は、病いのために動けなくなってゆく人々を、今も変わらず慰めているように見えた。
臨床1年目の冬、患者さんを受け持たせていただくことになり、自分の名前がベッドネームに書かれることになった。受け持たせていただくことになった世羽さん(仮名)は、特発性肺線維症(Idiopathic Pulmonary Fibrosis; IPF)であった。稀少難病のIPFは、手立てのない時代が長く続いていた疾患で、今も治療は限られ、呼吸困難感への薬剤はみあたらない。生活に在宅酸素療法が必要になり、怒りながら入院されてきたのが最初の出会いであった。
繰り返す急性増悪で緊急入院の連絡が入るのは、いつも自分の勤務帯であった。救急車を降り、ストレッチャーで病棟にやってきた世羽さんに、「今日もいました。」と声をかけると、「良かった。いつもいてくれてありがとうなぁ。」と手を合わせながらおっしゃるのであった。世羽さんは呼吸不全が進み、少しずつ動けなくなってゆかれた。「息が苦しい。どうすれば・・・。」と悩まれながらも、常にスタッフを気遣い、穏やかに過ごされていた。わたしは、世羽さんが人生観を変えていきながら、治らない病いと共に生きる姿に感銘を受けた。また同時に、病いでこんなにも苦しい時、人を支えるものは一体何なのだろうか、との思いが深く刻まれていった。
月日は流れ、深夜勤の朝に世羽さんを看取った。呼吸苦から解放された世羽さんは、安堵の表情を浮かべておられた。生前、「この病気はよくわかっていない。同じ病気の人に役立てて欲しい。」と、肺を提供する意思を示しておられた世羽さんを解剖室にお連れした。病棟のスタッフ皆が深夜勤での出来事が記された看護記録を読み、泣いていた。そしてお見送りの時、ご家族から「メッセージを見てやってください。」と呼び止められた。世羽さんの手帳の最後のページに「今日の夜勤は猪飼さん。心丈夫である。」と書かれていた。この言葉に幾度となく支えられ、厳しい看護師の仕事を続けてこられた。
臨床実践を積み上げていくなかで、治らない病い、消えない症状を抱えて生きざるを得ない時、人を大きく支えるものは何なのだろうか、と考え続けていた。おそらくそれは、必ずある。それをどうしてもやりたい、ただそれだけの想いで、専門看護師になり、臨床で研究を続け、聖路加の亀井教授の門を叩いた。IPFの緩和ケアプログラムを大学のチャペルと図書館にこもり、考えに考えた。IPFの看護開発は、我が国では誰もしていなかった活動ゆえに、大変な苦労が伴った。多くの人々に助けられ、支えられて、臨床実践と緩和ケアプログラムの開発研究を続けることができ、学位論文にまとめた。
世羽さんを看取って15年が過ぎた9月、IPFの看護ケアプログラムの開発が認められ、博士後期課程を修了した。若き日に訪れた稀有な出会いから生まれた想いが、生涯のしごとになった。