私が「看護師」になったきっかけは父の存在が大きい。幼い頃から父はよく、世界中で起こっているさまざまなニュースを教えてくれた。時には、ネルソン・マンデラやマザー・テレサなどの新聞記事の切り抜きを私の机にさりげなく置いてくれていることもあった。今思えば、看護との出会いや現在の研究テーマの土台は、やはり父の影響が大きかったと思う。
高校卒業後、大学へ進学し、フランスへ留学した。留学中は、おいしいチーズとフランス語漬けの毎日で、本当に充実した日々を送っていたが、その一方で、現地では、「アジア人」だからとあからさまに嫌な顔をされることもあり、自身が人種的にマイノリティであると感じることがあった。大学では、フランス社会における偏見や差別を研究テーマに決め、将来は、そのような社会を変えていけるような職業につきたいと思うようになった。しかしながら、結局在学中には、自分のやりたいことの答えを見出せぬまま、一般企業へ就職することにした。
就職1年目の秋、たまたま観たドキュメンタリー番組を通じて、中央アフリカで、看護師(助産師)として活躍されている徳永瑞子さんの存在を知った。HIV感染症の治療も受けられないまま病気が進行し、孤独に震える患者さんに寄り添う徳永さんの活動に深い感銘を受けた。また、それと同時に「看護師としてなら、自分のやりたいことが実現できる!」と思い立ったが吉日で、数日後には、自分の想いを会社の上司へ打ち明けていた。今、思い返せば、実にお騒がせな新入社員だったが、職場の方々は、私が仕事と受験勉強の両立ができるよう心温かくサポートをしてくれた。そのおかげもあって、無事に当時の聖路加看護大学へ学士編入にて入学することができた。再び学べることへの感謝と喜びを噛みしめながら、在学中は、自分がやりたいと思ったことは全て実現しようと心に決めた。HIV感染症の患者の支援団体やアフリカのマダガスカルで活動する関係者に自ら手紙を出し、夏休みに現地の医療現場で働かせていただくなど、日々の授業や実習だけでは学ぶことが出来ないこともたくさん経験させていただいた。HIV看護に携わりたいという想いは、在学中、一貫して変わることはなく、卒業後は、感染症の専門病床・外来のある病院へ就職した。
私が配属された病棟には、HIV感染症の患者さんが入院しており、その約9割は男性同性愛者の方々だった。自身の疾患だけでなく、セクシュアリティを周りに隠している人も少なくなかった。看護師としての日々の業務をこなしながら、一番理解して欲しい家族や友人に嘘をつかなければならない、そんな彼らの生きづらさを痛いほどそばで感じていた。そのため、せめてこの病院に訪れている時は、自分らしく、ありのままでいられる、居心地のいい場所にしようと心に決めた。看護師と患者である前に、"人"と"人"としての関係性を大切にした。もう薬を飲みたくない、自分を大切にできないという彼らと心から本気で向き合った。長い時間、2人で眉間にしわを寄せ、一緒に悩み、おさまらない怒りを何時間もかけて共有した。大切なパートナーを連れてきて、照れくさそうに紹介してくれた彼ららしい表情を大切にしたいと思った。そんな日々を過ごす中で、いつしか彼らが特別扱いされない社会を創りたいと思うようになり、現在、研究しているテーマに辿り着いた。
今年の4月からは、自身の研究も続けながら、母校で教員として働かせていただくご縁をいただいた。尊敬するネルソン・マンデラの言葉に『教育は、世界を変えるために使用しうる最も強力な武器である』という一節がある。学生を教育する立場となった今、改めてこの言葉の重さに気づかされる毎日である。学生たちが看護師として自信を持って、自分らしい看護の道を模索することができるよう誠意をもって支援していきたいと思う。