今年、新人教員として聖路加に入職し、前期は授業や実習など慣れない環境の中で時間があっという間に過ぎていきました。この5か月の間に私は友人を乳がんで亡くしました。彼女の死はちょうど実習期間中の出来事でした。私は実習中で忙しく、彼女とは1ヵ月に1回程度しか会うことができませんでした。彼女が緊急入院してからは、二日に一度は面会に行きましたが、私自身もっと会って話をしておけばよかったと後悔することもありました。この時、私はコミュニケーションの大切さを改めて痛感しました。おそらく私は、彼女が緊急入院するまでは、まだ大丈夫だろうと心のどこかでそう思い込もうとしていたのかもしれません。相手にもう少し状態を聞いていたら、会いに行っていたら、もっと客観的な情報を得ることができていたかもしれません。
このようなコミュニケーションエラーは、臨床でも存在すると思います。友人の死去後、私は実習で学生さんたちとかかわる中で、学生さんから「指導者さんは忙しそうだから話しかけられませんでした」、「指導者さんは見ていてくれているだろうと思っていました」という言葉を耳にすることがありました。「忙しそう」や「見ていてくれているだろう」は、自分の主観です。忙しそうに見えたとしても、本人に聞いてみないとその人の置かれている状況はわからないこともあります。人は、生まれ育った環境や考え方はそれぞれ違うため、他者を理解するためにも、自分自身のことを相手に理解してもらうためにも適切なコミュニケーションを取り、思い込みや憶測で物事を断定しないように注意を払うことが必要だと感じています。
私自身も学生の頃、患者さんを理解するためにこの情報が知りたい、この話が聞きたいと思い、コミュニケーションを取っていたように思います。相手を理解するには相手の話の中からその人自身を理解し、自分自身の他者理解が本当に適切であるかを相手に確認するプロセスを辿らないと本当の意味での他者理解には至りません。物事を自分の主観で捉えずに、常に相手の状況を理解しようという気持ちで看護の対象である患者さんや他者とに接しなければと思う日々です。そして、報告・連絡・相談の「ほうれんそう」に立ち返り、密なコミュニケーションを取ることで、コミュニケーションエラーによるネガティブな事象が起こらないようになればと思っています。