コラムのお話をいただき、看護というテーマで私が伝えられることは何だろうか、と悩みました。行き詰った私は、自分のことを振り返ってみることにしました。最初にお伝えすることは、私自身、自分が社会に役立つ人間になれるイメージなんてなかったということです。
宮城県、石巻市の中でも電車も通っていない過疎地域で育ち、見知った人達の中で、持ちあがりの小学校、中学校を過ごしました。進学校に進学したものの、全く知らない240名の同級生。どのように対人関係を構築していいのかわからず、環境の変化に戸惑い、色々と拗らせていたのもあり、案の定、保健室の扉を叩くことになりました。そこで、養護教諭の恩師との出会いがありました。保健室は、安心して失敗できる場所であり、私のことを信じて待ち続けてくれる先生がいる場所でした。
特別何かが好きなわけでもないし、集団行動も得意ではありませんでした。社会人として組織の中で対人関係を構築しながら業務をこなし、経験年数に伴って変化する立場や責任のある業務内容に適応し、たゆまぬ自己研鑽を続ける必要がある仕事というものを、何年も継続することなんてできやしないだろうと思っていました。当たり前のことを当たり前にできない自分に、一体何ができるのだろうと。そして、誰もが悩む進路選択、例にもれず私もしっかり悩みました。好きなこと、得意なことは、人よりも抜きんでてできるものでないといけなくて、全てを網羅していなくてはいけないものだと思っていました。私にはそんなものは1つもない。加えて、アイデンティティの確立という青年期の課題への直面化。自分の中に相反する要素が同時に存在する、自分はどっちなんだろう、一貫した自分って何なんだろうと、迷子になっていたわけです。
誤解だったんです。人よりも抜きんでる必要なんてないわけです。自分が無理なくできること、やっていて楽しいと思えること、苦じゃないこと、それだけでいい。そして、自分の中に相反する要素が存在しても良いし、そうした自分を否定する必要がないのだと。これは、いわゆる、自身が無理だと思っていた社会人になってからの経験が大きいです。私にとって生存戦略的な位置づけにあった自己洞察でしたが、そのプロセスや結果としての自己理解、自己活用は、精神看護を行う上で非常に役立つものでした。自分は何のために生まれてきたのか、何ができるのか、どうなりたいのか。自分の認知、感情、行動を振り返り、主観的体験を構築している要素を整理していく。大切な人々に支えられながら、こうした作業を続けていくと、自分のことを理解して、どのように活かすことができるのか少しずつ見えてくるものがあり、こうした視点は他者理解にも繋がっていきました。
私は人の話を聞くことが好きです。その人の考え方、感情、信念、そういったものに触れること、触れさせてもらえることをありがたいことだと感じています。私の関心の持ち方は、その人がどのように在るのか、ということです。話を聞いていると、その人の人生の一部を、まるで映画のように見せてもらっている感覚になります。活字は得意ではないし、集中力も途切れやすいので、読書はもっぱら苦手分野です。映像と音声付き、何よりフィクションではなくリアル。その人の経験がどのようにその人の人生に組み込まれているのか、そこ触れる瞬間は、尊いものであると感じ、その人の営みを認めることを大切にしています。
自分を理解し活かすことは、他者を理解し活かすことに繋がります。自己理解、自己活用はわたしのこれからの課題でもあり、看護を行う上で必要不可欠な態度なのではないかと思っています。